またまただいぶ時間が経ってしまいました…ごめんなさい!
やっと書ける時間ができました
前回が少し重たい内容だったので、今回は軽いもの…とも思ったのですが、今回もちょっと重めかもしれません
これまで羽田空港の国際線で勤務していた時のお話をしてきましたが、今回はその時の所属部署がなくなってしまった話をしようと思います
私が所属していたのは、羽田空港で台湾の航空会社を担当する部署でした
ちょっと大前提としてのお話しなのですが…今では考えられないことですが、当時は「中国の航空会社と台湾の航空会社は、同じ空港に横並びで就航させない」という、今思えば謎のルール(棲み分け)が存在していました
そのため、「成田には中国の航空会社、羽田には台湾の航空会社」というように分かれていた時期があったのです
「名古屋(今のセントレアではなく小牧空港の時代です)や関西は、最初から同じ空港じゃないか」と言われると確かにその通りなのですが、当時は関東圏において、このように空港を分けて運用をしていました
そのずっと前の羽田で、私は台湾の航空会社を担当していました
そんな台湾の航空会社にも、大きな転機が訪れます
2002年3月の「成田空港平行滑走路(今のB滑走路)」の供用開始です
それを機に、私が担当していた航空会社も成田空港へ移転することになりました
それと同時に、航空会社から業務を委託されていた(受託していた)私たちの部署は、担当する会社がなくなってしまい、存続の意味を失ってしまいました
同じ部署にいた仲間たちは、羽田の別部署、あるいは成田へ異動していくこととなりました
とても雰囲気の良いチームだったので、解散は本当に寂しいものでした
私自身、ずっと旅客業務を担当してきたこともあって、これからも旅客の仕事を続けたい気持ちが強くありました
しかし当時、私は「地域限定の契約社員」だったため、羽田を離れることができず、結果として**「搭載部門」**への異動となりました
よくよく考えると、この会社に入ろうと決めた当初の理由「ヘルメットかぶって搭載をやろう!!」という想いからでした
それなのに、いざ旅客の経験が長くなると、そこを離れることに少し寂しさや引っかかりを覚えたのは事実です
搭載の部署にはすっごく短い期間しかいませんでしたが、次回からはその「搭載編」に移ろうと思います
では、また次回!!

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